お知らせ
2019/11/18
ー2019年11月18日
日本人の加藤竜の絵画の中では、芸術は批判に姿を変える。Neue Kunstverein
Regensburg芸術団体は彼の油彩画をレーゲンスブルク(ドイツ)で公開する。
レーゲンスブルク:
二つの小さな展示室には加藤竜のあふれ出すような大きな油彩画は収まりきらない。それでも彼の作品をレーゲンスブルクで発表することは、Neue Kunstverein芸術団体の功績だ。表現主義だけではなく、ジャクソン・ポロックの偶然性を通り抜けたようにも見える、細部の中に享楽するような色彩のスタッカート。ジャケットのダッパーに、控えめなスタイルのメガネをかける加藤竜が、絵画をまさに言葉にうまく置き換え説明するように、近くから見ると多くのストーリーを絵の中に発見することができる。
この日本人は、彼の絵画をもってして意識的にある特定の伝統を、内容的または形式的にも、日本的あるいはヨーロッパ的にも関連付けるのではないと語る。しかし、彼は私たちの行動のきわめて少数がそれを意識しているとも語る。なぜ彼の中にギザギザ模様が連なるのだろうか?彼にはその理由を知る由もない、なぜならそれはただ単に彼の手から自然と生まれ出てくるものなのだから。めちゃくちゃに見えるようだがそれでも調和のとれた作品を、彼は素早く直感的に創り上げ、しかも造形的な要素と抽象的な要素を素早く見出す。彼の経験からくる背景はあらゆるメディア、あらゆる世界のコミックス、そして何よりも政治的な事件を通して、まさに彼のような批判的なアーティストを生み出す。
批判と啓発の媒体としての芸術には長い伝統がある。少なくとも強い絵画には、人々は常に「動揺」させられることを期待した。それは現実の中に新たな見方を生み出すこと。そのような芸術の形式と内容は、私たちがどのように世界を見て解釈することができるのか、その方法を示す。しかしながらそれは周知のように、啓蒙の内面に宿る弁証法が、完全に定着し確実なものとなった時に教義的なものとなり、もともとあった思考に反するという作用を生み出す。というのは全ての出来事は多種多様であり、早く変化し、私たちが思うよりもよりフィードバック的だからだ。だからこそ加藤竜はテーゼや説明を人々に伝える代わりに、絵画で表現するのだ。というのも概念より絵画のほうがより一層活動の余地と自由のスペースを持つことができる、と彼は考えるからだ。
トランプは彼の絵画の中に頻繁に現れる。同様に格子模様の目を持った自由の女神、火を噴き、全てを燃やそうとするトランプ。絵の背景には煙突、野生動物がしばしば描かれ、前景の中央には龍、または虎が逃げ出し、そして絵の中から飛び出し、ハイヒールを履いている足も見える。
人物の手足はしばしハサミのようなもの、攻撃的な金属的なものへと変わったり、または線や棒のような形へと姿を変える。つまり抽象的なものとなり、それはまだ明確な輪郭をもたないが、しかしヴィジョンとしてはすでに存在する。そして長く鑑賞していると、遠近が動き出し、絵画の画面は奥行きを感じさせるようになる。するとあたかもこのアートが内面から外に湧き出るように、筆跡に代わってこの画家の個性が姿を現す。
様々に繰り返される目立った要素、色彩豊かで素早く炎のように吹き荒れ、画面上を走る奇妙なギザギザの線。これらは典型的に絵の中でちらちらと現れる世界情勢、環境をほのめかすものをより強調する。加藤竜は部分的な要素のほとばしり、落ち行くもの、同時に全てを道ずれにするもの、存在するが既に見えなくなってしまったものを描く。
もちろんダニエル・リヒターとの次のような関連性も見て取れる。形態の探求、抽象と具象の間の移行段階のない変化、溢れ出る色彩、集中された構成、社会的政治的な要求。つまり芸術は加藤竜の絵画がそうであるように、一義的ではなく多義的であるべきなのだ。
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